CCBJニュースレター

在日ブラジル商工会議所は、毎月会員の皆様あてにニュースレターをお届けしております。1月号では、弁護士の二宮正人氏のご協力を賜り、日本から両親らとともにブラジルへ移住した経緯や、国費留学生として日本に留学したご自身やご家族の経験を振り返りながら、ブラジル経済の変遷についてご寄稿いただきました。

 

過去数十年間におけるブラジル経済将来への展望

CCBJ創立会員

二宮正人氏

 

116日は、私の家族にとって忘れられない記念日である。1954(昭和29)年のまさにこの日、移民船あめりか丸がサントス港に着岸して、両親と私がブラジルに到着した。それから数日後にサンパウロ市は創立400年祭を迎えた。私たちは、1927年に移住した父方の姉夫婦の呼び寄せで移住した。彼らはサンフランシスコ平和条約が締結されて間もなく数十年ぶりに訪日し、戦争のために荒廃して見る影もなくなった日本を見て、敗戦国に未来はない、よりよい生活をしたかったらブラジルへ行くべきだ、と言ったそうである。私の父は1989年、母は2016年にそれぞれ亡くなったが、戦後の日本が復興する姿を地球上の対蹠地から見て、またブラジルの経済が必ずしも良くならないことをグチにしていた。

しかし、私やブラジルで生まれた弟妹は 、両親の考えに必ずしも賛同できずにいた。ブラジルこそが自分たちに対して教育を公立学校、または奨学金で勉強させてくれ、最高教育まで受けさせてくれたからである。もし、あのまま日本にいたとしたら、戦後10年間のベビーブームで出生した団塊の世代に属していた私たちは、熾烈な競争に打ち勝って、大学に入れたかどうかさえ分からなかったと思う。私の両親は伯父夫婦が約束したような富裕者にはなれなかったものの、全員が健康に育ち、最高教育を受け、自らは平均寿命に到達できたことに、満足していたと思う。

大学を卒業すると、長年夢見ていた日本留学を果たすことができた。これは日本政府の文部省国費留学生の制度を利用することで実現できた。私自身は奨学金を6年半、妻ソーニアは10年、弟譲二は3年、妹ルミは7年、そして愚息マサヨシも3年間奨学金を得ることができ、奨学金を合計で30年近くいただけた。私自身は法学博士号、他の者は修士号を得ることができた。妻ソーニアは在学中に博士号をいただくことができず、帰国してからも大学の授業、子育て等のため、最近ようやく長年の希望がかなってサンパウロ市のカトリック大学から言語学の博士号を取得することができた。

私は何とかして日本政府からいただいた奨学金に報いる方法がないかと考えたところ、(社)日本ブラジル交流協会の制度を利用して1985年から2005年までに30人の日本人学生に奨学金を与えてブラジルで研修させ、学ばせることができた。貧者の一灯かもしれないが、若干の御恩返しにはなり、そのうち3名は博士号を取得して日本とブラジルの大学で奉職している。他の者は、様々な方法で日本とブラジルの間の理解を促進させるために、多くの分野で活動しており、私としては、結構なことだと喜んでいる。

2021108日は、国費留学生として18年ぶりに日本へ戻ることができて50年目の記念すべき日であった。私の当時の日本語能力は、サンパウロの日語学校とサンパウロ大学文学部日本語学科で学んではいたが、会話と読解力はともかく、文章を書く方は全くダメであった。日本に留学できたおかげで、大学においてレポートを書いたり、修士論文、博士論文の執筆で原稿用紙のマス目を一つ一つ埋めていく作業のおかげで今日の日本語能力を培うことができたと思っている。ワープロやパソコンが出回ったのは1970年代後半のことであったが、当時はとても高価な機器であったことから、学生の収入では入手できかったことから、当時はあきらめざるを得なかった。

1970年代と言えば、日本にいて当時の「ブラジルの奇跡」と呼ばれた、年間10%を超える経済成長をフォローすることができた。田中角栄総理は1974年に訪伯し、米国からの穀物輸出禁止に鑑み、ブラジルを世界の、そして日本の穀倉にすることを提案し。日中国交回復を行った政治家であったが、まさか将来日本が中国において契約栽培等を行って、食料を同国に頼ることになることは夢にも思わなかったであろう。田中総理の訪伯によってPRODECER、所謂セラード開発計画が、当初は5万ヘクタールの試験プロジェクトとしてスタートした。今日においてブラジルが米国と大豆の生産の12位を争うことになる姿を想像した者はおらず、セラード開発の成功を疑う者はいないと思う。しかし、当初からブラジル国民全員が賛成したわけではなく、今日のいわゆる土地なし農民運動のルーツとなった人々は、セラード計画を誹謗し、零細農民を追い出して、資本家のみの大農業を始め、そこに日本人1千万人を移住させてブラジルを乗っ取るつもりだ、という荒唐無稽なことを言っていた。私は日本にいて移住統計にアクセスすることができ、1970年代の移住の実績は二桁乃至三桁ではあったものの、二桁に近い数字であったことを知り、また1973年には最後の移民船にっぽん丸が300人弱の移住者を乗せてブラジルへ出帆し、その後は荷物を船で送り、自分や家族は飛行機で移住する世の中になったことを知っていた。また、1970年代から1980年代のバブル景気に浮かれる日本人がどうして、移住の初期のようにブラジルで開拓の苦労をするのだろうか、と素朴な疑問を抱いていた。

日本政府は1994年に政府主導型の移住を撤廃する方針を決めましたが、そのころすでに、所謂デカセギ現象が始まっていました。戦前戦後を通じて約25万人の日本人がブラジルへ移住し、現在では約200万人とも言われる第6世までの日系人が、当初は批判の対象ともなった人種や肌の色の差別なく、ブラジル社会に融合しているのが現実であり、海外最大の日系人社会を構成している。

他方、在日ブラジル人は中国、ベトナム、フィリピンに次いで5番目の外国人コミュニテイを日本で形成し、ブラジルにとっても、海外で3番目に多いブラジル人コミュニテイとなっている。

このように両国を結ぶ要因として人的な絆の存在を忘れることはできない。両国の当局者や政治家の相互訪問において、その絆のことは頻繁に言及され、在伯日系人は日本の外交にとって「宝」ともいうべき存在だ、と言われている。しかし、それに値する処遇が存在するかというと、大いに疑問を呈せざるを得ない。例えば、日本が19906月に出入国管理法を改正して導入した「定住者」査証であるが、これは日系人を二世と三世で足切りをし、四世は日系人として認めないということになっている。しかし、国籍付与において血統主義を採用している以上、人によっては、何代も続いている純粋な日本人の血統であるにもかかわらず。日本国籍を認めないのはおかしい、という説も生じてきている。最近になってようやく四世に対する査証が発行されるようになったが、年齢制限、滞在期限、保証人資格の厳格、家族の帯同、日本語能力要件が厳格であるために、年間3000人の受け入れ枠が、4年間で141名しか入国できていないという現状があり、現在四世の問題解決に協力しているが、簡単ではない。

2019年初頭にブラジル政府は一方的に日本人の短期訪問について査証免除を発表した。観光等の目的で訪伯して3か月滞在し、さらに3か月間の延長を認める者に対してである。これによって観光客のみならず、ビジネスで訪れる人々にとっても、かなりの事務手続きの簡素になっている。コロナ禍がなければ、より多くの日本人が訪伯できたはずである。その後、ブラジル政府は日本政府に対して同様の措置を取るように要請している。18日に訪伯した林芳正外務大臣にも、同様な申請がブラジル政府から、日系国会議員、日系社会の代表者からも林外相に陳情を行った。 

経済関係に話を戻すと、私は19829月にトロントで行われたIMF総会において、メキシコが真っ先に挙手して、デフォルト宣言を行った姿を日本で見ていたが、ブラジルの経済・通貨当局は、直ちに声明を発表して、ブラジルは伝統的に対外債務の支払いを履行しており、新たな借り換えを行うことができれば問題を深刻化させる必要ない、としたものの効果は見られず、それから10年以上継続した対外債務のリスケ交渉が始まりであった。また、最高2.500%に達したインフレにも立ち向かう必要があった。債権銀行団との交渉はニューヨークで、債権国とはパリクラブ、すなわちパリにあるフランス財務省の一室において行われた。結果として当時の対外債務額の約1200億ドルに金利と支払不能が生じた際のリスク手当ともいうべくスプレッドを30年間で支払うことを合意した。ブラジルは現在すでにほぼ全額を支払っており、さらに約3500億ドルの外貨準備を有しているが、これは1980年代、1990年代には想像もできなかった数字である。

私の留学生活の最後の頃になるが、ブラジルから頻繁に対外債務のリスケに関する説明のため、財務省、経済企画庁、中央銀行の代表者によるミッションが日本を訪問した。私は19838月に帰国したが、それまではそれらのミッションの通訳を務めていたが、それ以降はブラジルにおいて、リスケ交渉をフォローしていた。ブラジルは深刻な外貨不足に陥っており、IMF協定第8条を援用した救済を求めていた。そのためにはIMFが派遣するミッションに対して財政状況をすべて開示し、その救済策に従う必要があったが、それはかなり深刻で苦渋を伴うものであった。そして、ブラジル政府がIMFとの約束を履行できない場合は、その状況を説明するLETTER OF WAIVERをIMFに対して発出する必要があった。私が記憶しているだけでも、それは数通を数えていた。当時のデルフィン・ネット財務大臣は、あれは単なる一枚の紙でしかなく、必要であれば何通でもサインする、と言っていた姿が印象的であった。時の野党やそのサポーターたちは、街頭に繰り出して「IMF 出ていけ」というスローガンを掲げ、またすでに多額の金利やスプレッドを払ってきたので、元本は踏み倒しても構わない、というような国際法も国際金融のイロハも知らない者しか言えない荒唐無稽な発言を繰り返していた。

最終的なインフレの解決は、フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ財務大臣の下で行われたレアル計画によるものであったが、同時に通貨のデノミも行われ、当時の通貨2700に対して1米ドルのレートが設定され、1レアル=1ドルを目指す措置であった。デノミと言えば、1942年の通貨改革によって「クルゼイロ」という通貨が導入されて以来、4回にわたるショック療法による改革が試みられたものの、いずれも失敗に終わったが、その都度デノミも行われた。通貨については素人のそしりをあえて無視するならば、4回のデノミで通貨のゼロを3つずつカットしていくとどうなるか。その数字は1.000.000.000.000、すなわち一兆分の一ということになる。これに対して、更なる2700分の1のデノミを加えるとどうなるかは一目瞭然であろう。

では、これから現状の分析に入ることにする。新政権が11日に就任したが、最初の週において37の省庁が復活し、経済もさることながら、人権問題に関わるジェンダー、LGBT、人種、先住民、環境保護といったテーマを、女性11人を含む国務大臣が担当することになった。林芳正外相が18日にブラジリアに到着した際、三権広場では騒擾状態が生じており、大統領府、最高裁裁判所、国会に乱入し、盛んに器物損害も行われた。建国200年、共和制が敷かれてから、134年目であるが、今回のような騒擾状況が生じたのは全く初めてのことである。

1500人にも上る実行犯のうち、約半数が老人、子連れの女性であり、一旦連邦警察に連行されたものの、翌日には釈放されたが略式起訴になるもようである。もっとも危険な実行犯人のみならず、背後関係も徹底して捜査が行われることが期待される。彼らが2か月にもわたって、ブラジリアの陸軍総司令部前でキャンプ生活を送り、そこには連日食料と水、そして簡易トイレを供給していた者の存在も判明している。

今のところ、新政権の経済政策がどのような形で効果を上げるかは未知数である。恒例となっている政権発足後の100日間の経過を見守る必要もあると思われる。もっとも憂慮されるのは、財政責任法が今後どのように順守されるかである。すでに政権引き継ぎの段階において憲法修正案による政府支出の上限が変更されることが決まっている。もちろん、どちらの政権が行うにしても、貧民救済のための資金を確保するためには必要な措置であったことは否めないが、憂慮すべきは、財政責任法は時の政権の無制限な支出を阻止する唯一の手段となっているからである。

軍政時代から財政責任法の公布に至るまで、時の政府はインフレによる悪影響もあって、前もって設定された予算の執行が困難となり、必要とあれば「回転勘定管理権限」を使用して、支出を行い、そのツケをブラジル銀行に回していた。州政府も同様なことを行い、州立銀行にそれを負担させていたことから、インフレが未来永劫終息しない状況が継続していた。

政府の収入を増やさなければならないことは、火を見るより明らかなことであるが、他方では前政権がインフレの進行を抑えるために採用した、石油製品の免税措置を現政権も継続して行うことになった。前政権によるインフレは27%を超えていることが報告されている。国民が皆、食料、特に生鮮食料品を中心とした生活必需品の価格の上昇を肌に感じていることは言うまでもなく、どのようにしてその救済を行うかである。問題は、一般的増税に国民がどの程度理解を示し、どの程度それを許容するかである。考えられる増税としては, 富裕税、企業、大農園等に対するものであるが、国会における票の配分は野党と所謂中間派の存在を無視することはできない状況である。

新大統領は就任演説において、ブラジルが成長ためには鉄鉱石、穀類、オレンジジュース、鶏肉等の一次産品輸出国から、自動車、飛行機、機器等の工業製品輸出国を目指さなければならないことを強調した。この演説は歴代大統領によって繰り返し唱えられてきており、新鮮味を帯びたものではない。特にクビチェック大統領は、選挙の公約で、ウジミナス製鉄所から始まり、造船のイシブラス、トヨタをはじめとする自動車産業の誘致を成功させた。コーロル大統領に対しては批判があるものの、電気製品その他の輸入を解禁し、国内生産の自動車を「馬車」に過ぎないと批判して、カーモデルの刷新が行われたことは記憶に残っている。

現状では新政権の経済政策がどのような形でとられていくのかを予想することは困難である。これまでの大統領の発言から、民営化よりは国営化の傾向が強いことは想像できるが、ブラジルの経済はかなりの成熟度を有していることから、今後の推移を慎重に見守るほかはないように思える。前政権にくらべて省庁の数は倍増して37省となった。人権問題を尊重し、身体障碍者等のマイノリテイや先住民、自然環境保護については言うまでもないが、女性の閣僚が11名という過去最大の人数であることは、そのうちの1名の過去が物議を醸したとしても、注目に値する。

 

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