ブラジルの中の日本

日本人?!外国人?!

「日本人の顔をしているのに、どうして日本語ができないの?」簡単な漢字とひらがなで書いてある看板の文字が読めず、通りを行く人に尋ねると「めがねでも買いなさいよ」と言い返されてしまう、日本人の顔をした外国人―日系ブラジル人。現在、ブラジルの日系人人口の1割以上、28万人が日本に住んでいます。1990年6月の「出入国管理及び難民認定法」の改定に伴い、日系3世までに定住ビザ発行が可能になったことで多くのブラジル人(主に日系人)が「出稼ぎ」目的に来日しました。そして、日本人がやりたがらない3K(きつい・汚い・危険)の人材不足を埋めるという形で「外国人」雇用枠に「日系ブラジル人」が次々と組み込まれていったのです。
ブラジルの日系人の歴史は、1908年6月18日、サントス港に上陸した781名の笠戸丸移民から始まりました。1888年のブラジル黒人奴隷制度廃止によりコーヒー農園で働く労働者が不足した事に対し、それまでヨーロッパ移民(イタリア系・イスパニア系・スラブ系等)によって補っていたものの、その中心ともいえるイタリア系移民の減少に伴い、サンパウロ州政府が日本人の受け入れに踏み切ったのです。

1890年代後半から、日本人導入の契約がサンパウロ州政府と移民斡旋会社により結ばれていましたが、外務省の慎重な態度もあり、現実には至らず、1907年に皇国殖民会社がサンパウロ州政府との間に「日本人移民3千人ヲサンパウロ州ニ輸入スル契約」を締結した事で移民が本格化しました。この契約では「農業者ニシテ農事労働ニ適スル者3人乃至10人ヨリ成ル家族ヲ組織シタル日本移民3千人」と規定され、年齢は「12歳以上45歳マデノ男女ヲ右労働ニ適スルモノト見做ス」とあり、単独者は除外されていました。プラス、5パーセントを限度として非農民も認められていました。

第1回目の募集期間が短かったものの、「コーヒーの木には、金が生る」などのキャッチコピーも利用され、日本各地から移民希望者が集まりました。出身県別で見ると、沖縄が最も多く325人、次いで鹿児島(172人)、熊本(78人)、福島(77人)でした。
しかし、笠戸丸によるブラジル移民第1号がブラジルの耕地に入ってから、1ヶ月経つか経たぬうちに問題が発生したのです。耕地に入った移民の後を追うように視察に衝いた公使館の職員が、様々な耕地でコーヒーの収穫が少ないという移民の苦情に接しています。収入は、皇国殖民会社の予想計算の半分にも満たず、移民たちが収穫の仕事に慣れても、自体はあまり改ざんされませんでした。これは雇い主側の責任でもなく、この年のコーヒーはひどい不作だったためだといわれています。収穫賃が予想の半分であったのに対し、生活費は予想よりも高く、移民がブラジルに到着して1年3ヵ月後の1909年9月には耕地に残っているのは200人以下でした。多くは、サンパウロ市やサントス市などの都会で働くようになり、アルゼンチンに転住した日本人も160名に上ります。

第1回目の移民が様々な問題を惹起したことに、移民の家族構成を問題視する意見もありました。農民でないものが農民として移民をしただの、本当の家族でないものが家族を構成して行ったので問題が多発したなどと。第1回目の定着率の悪さから、ブラジル側から移民を打ち切られるのでは、と懸念があったものの、2回目以降の定着率は上昇し、1914年までに合計14886人がブラジルに渡航しました。

ところが移民事業も起動に乗ってきた1913年末、サンパウロ州政府は日本側に突如移民契約を解除すると通告し、1914年3月の移民3500名ほどが最後の移民となってしまったのです。1910年代からのヨーロッパ移民増加が理由とされ、ヨーロッパ移民の代行であった日本移民故の契約解除でした。しかし皮肉なことに、1915年7月に第1次世界戦争が勃発し、ヨーロッパ移民が激減、そこにまた日本移民のチャンスが到来しました。その結果、1917年以降4年間で5000人の州政府補助移民を送り出すまでになりました。その後、ブラジル側の援助は打ち切られたものの、日本政府の援助が制度化され、ブラジル移住全盛時代を迎えました。1925年からは移民に対する渡航費の全額補助が行われるようになり、移民会社の取り扱い手数料も日本政府が負担することとなりました。これにより、1934年までに10万人を超える日本人移民がブラジルに渡航したのです。
日本からの最後の移民船がブラジルに到着したのは1973年でしたが、それ以前から移民者の数は年々減少していました。戦後の窮乏生活が終了し、日本が先進国の仲間入りをした事が理由とされています。移民のほとんどは出稼ぎ目的で渡航したものの、低賃金であったことが彼らの自作農への転換と定住を余儀なくさせました。結果的に定住者になったものの、彼らの夢は故郷に錦を飾る事でした。1937年に行われた移民調査で、「永住か帰国か」という質問に対する回等の85パーセントが「帰国」であったといわれていますが、彼らの帰国への希望を最終的に打ち砕いたのは、第二次世界大戦の勃発と日本の敗戦でした。

1900年代初頭、日本はブラジルなどには手も届かないほどの小さな国で、外国との戦争も絶えませんでした。多くの日本人がよりよい生活を求めてブラジルへ移民として渡り、現在では世界でも最大級の日系人社会を形成して成功を収めています。1世の農業面での貢献と2世の各方面にわたる活躍により、ブラジル社会で日本人が確固たる地位を築き上げました。しかし、そこに至るまでの困難は文章ではとても書き表す事のできないものだったでしょう。
現在、5年後に迎える日本移民100周年記念に向けて様々な活動が行われています。多くの在日ブラジル人問題や、ブラジル日系人社会における諸問題を抱えながらも、これを期にさらなる日伯交流の発展が期待されます。

参考文献
アケミ・キクムラ=ヤノ 「アメリカ大陸日系人百科事典 写真と絵で見る日系人の歴史」 明石出版、1992年 p166~205
鈴木譲二 「日本人出稼ぎ移民」 平凡社、1992年 p135~169

参考文献
アケミ・キクムラ=ヤノ 「アメリカ大陸日系人百科事典 写真と絵で見る日系人の歴史」 明石出版、1992年 p166~205
鈴木譲二 「日本人出稼ぎ移民」 平凡社、1992年 p135~169