CCBJニュースレター

在日ブラジル商工会議所は、毎月会員の皆様あてにニュースレターをお届けしております。今月のニュースレターでは、日系ブラジル人第1号として知られる大武トーマス和三郎について弁護士の二宮正人氏(写真)に寄稿していただきました。

 

日系ブラジル人第1号 大武トーマス和三郎(1872〜1944)

サンパウロ大学法学部博士教授 ブラジル国弁護士、公証翻訳人兼宣誓通訳

二宮正人氏

明治初年に東京で生まれ、初めてブラジルに居住した日本人として知られる大武和三郎(彼以前にブラジルに渡航した日本人は旅行者として訪れている)。大武は17歳の時、世界一周航海中のブラジル帝国軍艦アルミランテ・バローゾ号が1889年7月に横浜に寄港した際に英語の通訳として雇われた。そして同艦に海軍少尉として乗艦していた当時のブラジル皇帝ペドロ2世の皇孫アウグスト・レオポルドの招きに応じてブラジルに渡航したと言われている。

急な乗艦で海外渡航に不可欠な旅券を所持しないまま出発したため、数年後に日本に帰国した際には、兵役忌避が目的で不法にブラジルに渡ったのではないかとの嫌疑をかけられることになった。また奇妙なことに、アルミランテ・バローゾ号の艦長クストジオ・ジョゼー・デ・メロ大佐(後に少将に昇進して共和制初期に海軍大臣となる)には艦上の出来事を記録することが義務付けられていたにもかかわらず、航海日誌に大武に関する記述はない。

約1年の航海の後、アルミランテ・バローゾ号は1890年7月29日にリオデジャネイロ港に到着した。バタビア(現インドネシアのジャカルタ)とアチェ(現インドネシア)の間を航海中に、ブラジルで共和制が宣言されたとの報せが届いた。アウグスト・レオポルド親王はセイロン(現スリランカ)のコロンボ港で下船を余儀なくされ、そこから当時ブラジルに残っていた他の親族の例にならって欧州へ亡命の途についたが、大武はクストジオ・ジョゼー・デ・メロ艦長の許可を得てブラジルまで航海を続けた。

ブラジル到着以降数年間の大武の現地での足取りについては不明な点が多いが、1893年4月24日付けでブラジル海軍工廠が発行した卒業証書によると、大武はブラジル海軍工廠で四級機関士の講習を修了している。長年の間、大武は海軍兵学校に入学し卒業したとものと考えられいた。ブラジルの日系社会で発行された出版物にもそうした記述があり、ブラジル日本移民史料館の展示を含め他の様々な資料にもたびたび引用されてきた。 

しかしながら、ブラジル軍艦で一年近く航海したとはいえ、日本からやって来たばかりの18歳の若者が、狭き門である海軍兵学校の入学試験合格に必要なポルトガル語や他の科目の学力をどのように身につけることができたのかという疑問があった。この点については、クストジオ大佐の便宜があったとも言われるが、それにしても試験に合格しないことには入学は許されないだろう。しかも、ブラジルの歴代憲法では、陸海軍士官となるには生来のブラジル国籍保有者であることが必須条件とされており、陸海軍士官養成学校の受験にも同様の条件が課せらていたはずである。

海軍兵学校への入学にも、海軍工廠の機関士養成講習の受講にもブラジル国籍者であることが必須条件だったとしたら、どのように大武は受講を許されたのだろうか。

1889年12月14日、共和国臨時政府は1889年11月14日時点にブラジル国内に居住していた外国人、および同日以降2年間ブラジルに居住した全ての外国人はブラジル市民とみなされると定めた政令第58−A号を発布した。そして同政令によりブラジルに帰化した外国人は、生来のブラジル人と同様にすべての市民的、政治的な権利を享有し、国家元首を除いたすべての公職に就任できるようになった。

大武は共和制が宣言された日にブラジル軍艦に乗っていたことから、ブラジル領土内にいたものとみなされたのであろうと考えられており、その点についてはブラジル国内の規定上も国際法上も全く問題はない。

大武が海軍兵学校や海軍工廠に学生として入学したことを証明する資料はなく、前述した四級機関士の資格を付与する卒業証書(2007年6月に大武の親戚がブラジル日本移民史料館に寄贈)が残っているのみだ。大武のブラジル滞在に関する書類は、すべて第二次世界大戦中の東京大空襲で焼失したとされている。

海軍工廠での講習修了後の大武の詳しい足取りは不明だ。ブラジルの日系社会では、大武はブラジルへの渡航で世話になったクストジオ・ジョゼー・デ・メロ少将のために、海軍の反乱事件(1893年〜1894年)に参加したとも言われている。実際に、メロ少将は辞職してから反乱を指揮し、直後に政府軍により鎮圧されている。メロ少将は他の将校らとともにブラジルを逃れ、1895年に恩赦を受けるまでポルトガルに亡命した。

大武は、日本が日清戦争に勝利した1895年に帰国。戦争終結後に日本に帰国したために、慌ただしくブラジルへ渡ったのは兵役忌避のためではなかったかという嫌疑をかけられたが、最終的には出国の理由を説明できたと見え、大きな問題にはならなかったようである。

出国時には旅券を所持していなかったことが分かっているが、日伯修好通商航海条約が締結されたのは1895年11月5日で、ブラジルに日本公使館が設置されたのは1897年だったことから、大武は渡航のために日本の旅券を取得できなかったはずであり、帰国時にどのような旅券を使ったは明らかになっていない。こうした理由から、前述のとおり政令第85ーA号によって事実上ブラジル国民として扱われていた大武が、帰国するにあたってブラジル旅券を付与されたという可能性も考えられる。しかし、ブラジル当局による大武の旅券発行を証明する資料はなく、大武が日本に帰国した年にブラジルからの入国者があったという記録も残されておらず、大武の帰国についての詳細は依然として謎に包まれている。

ブラジルに4年間滞在した大武は、ブラジルのポルトガル語に精通した唯一の日本人として、1897年に日本に開設されたブラジル公使館通訳として採用され、初代公使として着任したエンリケ・カルロス・ヒベイロ・リズボア公使に仕えた。そして1942年に第二次世界大戦のための日本とブラジルの国交が断絶しブラジル大使館(公使館から昇格)が閉鎖されるまで勤務した。その間に、葡和辞典 (1918年)や、和葡辞典(1925年)を編纂しており、中でも後者はブラジルに渡った多くの日本人移民にとって測り知れない価値を持つものとなった。

1930年代に行われたポルトガル語正書法の改正後、大武は見出語6万8000語、総収録語約10万語でパウロ・レオン・ヴェローゾ大使による序文付きの葡和新辞典(1937年)を出版した。1950年と1971年には長男信一が自費で重版している。葡和新辞典は、その後70年間にポルトガル語正書法は度々改正されているにもかかわらず、ブラジル特有の単語を含め語彙が豊富であるため現在でも十分通用する内容となっている。辞書以外にも大武は「葡語文法解説」(1925年)や「日伯会話」(1927年)など文法や会話の解説書も出版した。 

大武は、自身も国籍を持っていたブラジルによる1945年6月6日の対日宣戦布告も、ブラジルを含む連合国に対する日本の無条件降伏も知ることなく、1944年2月23日に71歳でこの世を去った。

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